断章

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復活と捏造

 諸君もご覧になったであろうあの一大熱狂をいま一度思い返していただきたい。人が人を巻き込み次第に大きくなっていった追従者たちは、あの夜考えうる限りの絶望と放心を味わった(あれを見てこのように感じない者は現代に相応しい愚鈍者である)。彼女は友を救って死んだ。確実に死んでいた!諸君も彼女がはっきりと、魂だけになっていたのを目にされたはずだ。そして彼女は、七日後に一切の瑕疵無く復活した。これは史上ただひとつの例外であった。この死と復活によって我々は高度な一体化を経験してしまったのである。そしてこれは二十一世紀の日本におけるゴルゴタの丘追体験に他ならない!諸君はあのとき正に目撃したのだ、二千年前のあの熱狂を、人類の最も神聖にして崇高なる捏造の過程を!あの十五日間、そこには個なくしてただ「調和」があった(見ようによっては今も続いている)。これがつまるところナザレ人イエスの<意味>に考えうる限り最も近い、しかしながらいまだ偽造品であるところの「神の国」である。

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赦しの神

『イエスの父はいつ死んだか』佐藤研 p136-137

 

・・・・・・人間はどういうところで、そういう無条件の神のゆるしと出会うかというと、今挙げたイエスのたとえ物語の全部がそうですが、実存的な自立性が崩壊する、そこで出会っています。放蕩息子の下の弟にしろ、ぶどう園の最後の労働者にしろ、あるいは徴税人にしろ、ここで私は、「悔い改め」というつもりはありません。「悔い改め」というと、もう一つの立派な倫理的方向をとっているわけです。むしろ、自分が自分である、と自分を定立する意識が崩壊してしまう、ガタガタッっと解体してしまう、その地点が無条件にゆるす神との出会いの「場」なのです。逆にいうと、これがないと無条件のゆるしというのは分からない。その典型例が、もどってきた息子のたとえ物語の長男です。長男に対しても父親のゆるし、父親の愛というものは無条件に注がれているのですが、彼は分からない。だから文句をいうわけです。なぜ、分からないか。それは自分の立っている足もとが、自分が自分であるという意識が、くずれていないからです。くずれると分かる。しかし、そのゆるしはくずれないと与えられない、ということではないのです。ここが大事です。すでに与えられているのですが、気がつかないのです。もう一つ、付けくわえておきたいのは、そういう無条件のゆるしというものの体験、あるいはそれの理解、そこからイエスの倫理というのがきているということです。マタイによる福音書五章3節以下(並行ルカによる福音書六章20節以下)の、俗にいう山上の説教の基本的なポイントはどこにあるか、という問題といってもよいと思います。山上の説教というのは、大体、何々しなさいという調子が支配的ですが、そうすれば神の国に入れるという論法ではないということを言わなければならないのです。これは、無条件のゆるしに出会った者が、これからどう生きたらいいかというときの指針だと言いたいのです。無条件にゆるす神との出会い、そこからそれに何とかかなうように生きるにはどうするか、という問いが出てくる。倫理というものが流れでてくる。決してその逆ではない、ということです。

 

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生への意志と生の条件

(1.1) 人生の意義は存在しない。これは自明な原則である。

(1.2) (1.1)の原則から、明らかに生への意志はそれ自身を目的としている。この点において、生への意志はただそれのみによって真に価値があり崇高で尊厳あるものである。なぜなら、それ自体を目的とするものは明らかに最高度の価値を備えずにはいられないからだ。

(1.3) 生の成立を目的とする活動(これを生の条件と呼ぶことにする)は、それ自体ではない目的を有するがゆえに、生への意志そのものと比較して明らかに価値が低い。

(1.4) ところが、生の条件はまさにそれなしでは生への意志が達成されないようなものであるから、ここで見かけの価値の転倒が発生する。このことはこれらの概念の価値認識の転倒に他ならない。すなわち、生の条件が生への意志を圧倒し、生への条件こそが土台であり基礎なのだ、という誤謬を生み出す。

 (1.5) しかしこの矛盾に耐えられないものが破滅に至ることもまた明らかだろう。これが自殺の直接的原因の一つである。このような破滅は価値認識のねじれを解消することにより回避できる。

(また、より根本的に、自己を目的とする高貴さを原則として認めない場合、ニヒリズム的虚無に陥る。これはまた別の自殺の直接的原因となる。この場合あらゆる価値の転倒が起こり生への意志そのものが無価値となる。最高の直観と知恵を持つある著作家はこれに真っ向から勝負を挑み、結果狂気に身を落とした。)

 (1.6) 生への条件はこのようにして生への意志を成立させていると同時に不可避的にそれを蝕むものである。このことから我々は勤めてこれを最小限に押さえ込まなければならない。そうすることで我々は生に関するこの最初の問題に対処することができる。またこれによって生の次の段階の問題、すなわち退屈の問題が浮上してくる。この問題の論理的解決は別の機会に譲る。

あれかこれか 2

輪作

 

  さて、すべての人間は退屈である。この言葉自体が一つの分類の可能性を示唆する。退屈という言葉は他人を退屈させる人間をも、みずから退屈する人間をも言い現すことができる。他人を退屈させる人々は庶民、群衆であり、一般に無限の人間集団である。みずから退屈する人々は選ばれた者、貴族である。そして奇妙なことであるが、みずから退屈しない人々は通例他人を退屈させ、それに反して、みずから退屈する人々は他人を楽しませるのである。みずから退屈しない人々は一般に世の中でいかようにか多忙な人々であって、彼らはまさにそれゆえに最も退屈な、最もがまんのならない人々である。・・・・・・

 

・・・・・・閑居は決してあらゆる罪悪のはじめではなく、むしろ真の善である。しかし退屈はわざわいの根源であり、あらゆる罪悪のはじめであって、われわれが遠ざけておかなくてはならないものである。閑居は罪悪でもわざわいでもない。むしろわれわれは言うことができる、閑居を理解する心をもちあわせない人間は、そのことによって、彼がまだ人間的なものにまで高められていないことを示すのだ、と。・・・・・・

 

 決して職務に就いてはならない。そんなことをすれば、ひとは全く十把一からげの人間に、また国家組織という機械のちっぽけな鋲になってしまう。ひとは活動の主人であることをやめてしまうので、そうなればもろもろの理論もあまりやくに立たない。ひとはなにかの称号をもらうが、そのなかには罪と悪との全帰結が含まれている。奴隷労働をするための規則は、昇進が早かろうがおそかろうが、いずれにしても退屈である。称号というものは二度とぬぎ捨てることはできない。ただし犯罪によってならば別であるが、犯罪ならばひとをさらし者にするであろうし、そのときにすら、ひょっとして王室の決定によって特赦されて、ふたたび称号を与えられないともかぎらないのである。
 職務から遠ざかっているにしても、無為でいるべきではなく、閑暇と同一であるようなあらゆる仕事に価値を置くべきであって、パンに関係のないあらゆる種類の芸術をやるのがいい。けれどもこの点に関しても、あまり外延的ではなく、むしろ集約的に自己を発達させるべきで、たとえ年はとっても、子供は喜ぶためにわずかのものでたりるという古語の正しさを立証すべきである。

 

 恣意には秘密がこもっている。恣意的であることはなんら技術ではないと思われているが、自分自身が迷いこまず、自分で満足を感じるようなやり方で、恣意的であるためには、深い研究が必要である。そういうやり方ならば、われわれはあるものを直接的に享受するのではなく、全く別のものを、われわれ自身が恣意的にそこへ入れたものを享受する。われわれはある劇の途中を見物し、ある書物の第三部を読む。そうすればわれわれは、作者がご親切に読者に与えてくれようとしたものとは全く別の享楽を与えられる。われわれはぜんぜん偶然的なあるものを享受し、全存在をこの見地から考察し、この存在の実在性をそれによって挫折させる。私は一つの例をあげよう。私が、当時成立していたある生活関係のために、どうしてもおしゃべりを聞かされなくてはならない男があった。彼はあらゆる機会に小哲学講演を用意していたのだが、それがきわめて退屈なものだった。私は絶望にひんしていたのだが、突如として、彼が語るときに途方もなくひどく汗をかくことを発見した。いまこの汗が私の注意をひいた。私は汗つぶが彼の額の上に集まり、それから合して小さな流れになり、鼻を流れくだって、しまいにしずくの形になり、それが鼻の頭にぶらさがるのを眺めた。この瞬間からいっさいが変わってしまった。私は彼の額と鼻の汗を観察するだけのために、彼に哲学的な説教をはじめるようにけしかけることにさえ喜びを覚えた。バッゲセンはあるとき一人の男について、彼はたしかにたいへん礼儀正しい人間であるが、たった一つ文句があって、それは彼の名にはどんな言葉も韻が合わないことだ、と言った。このように、生の実在をこういう恣意的な関心によってどうでもいいものにしてしまうということは、極度に気持ちのいいことである。われわれは偶然的なあるものを絶対的なものにし、かかるものとして、絶対的な感嘆の対象にするのである。これは、心情が運動しているときには、特にすばらしい効果をあげる。多くの人々においてこの方法はすぐれた刺激法となる。生のなかのいっさいを一つの賭とみなす等々の方法である。ひとが自分の恣意を首尾一貫して保持することができればできるほど、結合はますますおもしろくなる。首尾一貫の程度はつねに、当人が芸術家であるか、それとももぐりであるかということを立証する。なぜなら、ある程度まではすべての人間が同じことをするからである。ひとが現実を見る目はたえず変わらなくてはならない。・・・・・・

 ひと自身のなかの恣意に外部の偶然が呼応する。だから、なにかが提供されるためには、ひとはつねに偶然的なものに対して眼を開いて心構エヲシテ(エクスペデイトウス)いなくてはならない。人々がすでに一週間ないし二週間もまえから心待ちにする、いわゆる社交的な喜びは、あまり意味はない。それに反して、きわめてささいな事柄さえ、偶然によって娯楽のために豊かな材料を提供することがある。この点に関して詳細にわたることは不可能であって、どんな理論もそこまでは及ばない。最も委曲をつくした理論といえども、天才がその遍在においてやすやすと発見するものにくらべれば、貧困にすぎないのである。

 

 

 

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われわれの教養施設の将来について

われわれの教養施設の将来について[1872、邦訳昭和26年] より一部抜粋
(一部を新字体に挿し変えている)

・第三の公演

・・・・・・こうしてギムナジウムは今でもまだ博識の栽培地かもしれないが、それはいわば最も高貴な目標を志す教養の自然でたくまぬ副作用にすぎぬあの博識ではなくて、むしろ不健康な身体の肥大症的な膨張にたとうべき類の博識なのだ。この博識な肥満症にギムナジウムはなつてゐるのだ、もしも今『現代ドイツ文化』として威張り返るならいであるあの洒落た野蛮の格闘練習場にまで堕落してはいないとすれば。

 

・・・・・・ここではギムナジウムは何よりも先ず名誉の或る段階と見なされる、そして凡そ統治の領域に進む衝動を感ずるすべてのものがギムナジウムの進路に踏み入ることだろう。これは一つの新しい、とにかく独自な現象だ、国家が文化の神秘教師として現れる、そして自分の目的をおし進めながら、国家はその従者の誰しもが一般的国家的教養の炬火だけを手にして彼の前に現れるように強制する、そのゆらめく光の中で彼等は国家自身を最高の目的として、一切の彼等の教養の努力の報酬として再び認むべきだとされるのだ。

 

・・・・・・考え深いギリシア人が国家に対して近代人には殆ど反感をそそるほど強い讃嘆と感謝の情を感じたのは、まさに、そのような危急と保護の施設がなくてはまた文化のただ一つの芽も発達できないこと、全く模倣できず万代唯一な彼の文化がまさに彼の危急と保護の施設の行きとどいた賢明な庇護のものでこそそれほど豊潤に成長したのだということをはつきり見きわめていたからだ。彼の文化にとつて国家は国境監視者や調整者や監督者ではなく、讃嘆された、もっと高貴な、いわばこの世のものならぬ友を荒荒しい現実の中を護衛して行つてその感謝を受けるところの強健で筋骨逞しい闘の身支度のできた盟友であり道連れなのだ。・・・・・・ 

 

ショーペンハウアーのユダヤ教批判

『世界の苦悩に関する教説によせる補遺』(岩波文庫「自殺について」斎藤信治訳 に収録)より

 梵天(ブーラフマー)は一種の堕罪乃至堕落によって世界を生み出した。そのためのそれを償うために彼は自ら世界のなかにとどまり、世界からおのが救済の日を待っている、とせられている。――素晴らしいことだ!――仏教では、懺悔を通じて到達せられた涅槃(ニルヴァーナ)という至福の状態の蒼穹のような明澄さのなかに、長い静寂の後に、不可解な溷濁がいりこんできたことの結果として世界が発生したものとせられている。即ち世界の発生は一種の宿命によるものなのであるが、しかしこれは結局倫理的に理解せられるべきものである。尤も以上の説は、自然界のうちにも、いわゆる原始星雲――これから太陽が形成された――の不可解な発生という点で、それと厳密に対応する形像と類似をもってはいる。ところで世界はその後、倫理的堕落の結果、物質的にも漸次に悪化から悪化への道を辿り、ついにそれは現在の悲しむべき形体をとるにいたった、とせられている。ーー素晴らしいではないか!――ギリシャ人にとっては世界と神々は或るはかり難い必然性の創作である、――こういう思想も当座の要求を充たす間に合わせのものとしては我慢ができよう。――オルムズド(善き神)はアハリマン(悪しき神)との絶えざる戦闘のうちに生きている、――これも一考に価いする。
 ところが、エホバとかいう神が、自分の心をたのしませるために困窮と悲惨のこの世界を創り出しておいて、さておまけに「すべて甚だ善し παντα καλα λιαν」(創世記1.31)などと自分一人で拍手喝采したというにいたっては、もう我慢がならない。そこで、こういう点からして、ユダヤ教というものは文明国民の諸々の宗教のなかで最下位を占めるものであることがわかるのだが、宗教の中で霊魂不滅の教理を全然もっていない否それの何らかの痕跡さえも含んでいない唯一の宗教がこのユダヤ教だということも、最下位の宗教としてはまことにさもあるべきことである。

 

独房

 この部屋は独房である。ただここに於いてのみ私の自由・私の創造性・私の奔放さは表現されうる。定期に、あるいはまた不定期に、エートスという名の看守が私の独房にやってきて、目隠しを付けてどこかほかの場所でしかじかの作業をさせる。従わない場合には苦しみ、剥奪、または(今では殆どありそうにもないが)予告された直近の死が待ち受けていることを私は知っている。

 また私のような囚人が他にも沢山いて、囚人によって待遇がかなり違うということも知っている。これくらいは目隠しを付けていても判るのだ。私はまた、独房の外についてほかの囚人が色々な考えを持っていることを聞いている。あるものは外に救い主がおりいつか彼を外に出してくれることをひたすら信じ、あるものはどこかの時点で違う独房に入れられると思っており、またあるものは時がくれば自分が看守の側に回ると感じており、夢を見ているだけだという人もあり、独房の外は存在しないという人もあり、そもそも独房など無いというものもあり・・・・・・。

 ある時私は看守に「この外にはなにがあって、わたしはいつも何の作業をしているのでしょう」と聞いたことがあったが、看守は「お答えしかねます。私の役割はただあなたに作業をさせるということだけですから」としか言わなかった。 囚人どうしは手紙や物のやりとりをする事ができ、私はどうしても独房の外がどうなっているのか知りたく色々な人に手紙を送った。しかしあまり意味のある答えは帰ってこない。第一独房の外で目隠しを外した人がいないのだ。

・・・・・・ある日私は決心した。「看守をぶっ飛ばして、目隠しを外してやろう。」次の日、いつものように看守がやってきて、私に目隠しをし、どこかへ連れ出した。すぐさま私は後ろで私を押さえていた看守を振り切り殴り倒した。

 そうして目隠しを外すとそこにはただ闇があった。看守も居なかった。独房への帰り道もなかった。独房はなかった。そうしてそこで私は永遠に存在した。

 

 

(しかるに、超人は存在し得ない――)

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