断章

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あれかこれか 1

Διαψαλματα

 

ぼくはぜんぜんなにもしたくない。ぼくは馬に乗りたくない――これは激しすぎる運動である。ぼくは歩きたくない――これは骨がおれすぎる。ぼくは身を横たえたくない。なぜなら、ぼくは横たわったままでいるか――これはいやだ――、それともふたたびおき上がらなくてはならない――これもいやだ――からである。けっきょくのところ、ぼくはぜんぜんなにもしたくない。

 

将棋の相手に、その駒は動かせないよと言われたときの駒――この駒に感じるにちがいない気持ちがぼくの気持ちだ。

 

時は過ぎていく、人生は一つの流れだ、などと人間たちは言う。ぼくはそんなことを少しも心にとめない。時は静止している。ぼくもいっしょに静止している。ぼくの企てるいっさいの計画がまっすぐにぼくに返ってくる、ぼくがつばを吐こうとするとぼくは自分自身の顔につばを吐くことになる。

 

ぼくは毎朝起きるとすぐにまたベッドにもぐりこむ。ぼくが最もこころよく感じるのは晩に燈火を消し、かけぶとんを頭にかぶる瞬間だ。もう一度ぼくは身をおこし、名状しがたい満足感をもって室内を見まわし、それから、おやすみと言ってふとんにもぐりこむ。

 

謎である以上は、他人にとってばかりでなく自分自身にとってもだ。ぼくは自分自身を研究する。それに飽きると、ひまつぶしに葉巻をふかして考える、主なる神はぼくを本来どうしようと思われたのか、また、これからぼくをなににしようとなさるのか、と。

 

「人は決して元気を失ってはならない。不幸がどんなにおそろしく積み重なっても、雲のなかには救いの手が見えるのだ。」――イェスパー・モルテン氏は最後の晩課の説教のなかで語った。ところで、ぼくはずいぶん戸外を歩きまわることに慣れているのだが、そういうことをまだ目撃したことがなかった。しかし数日前に散歩の途上でそういう現象を目撃した。雲のなかから伸びていたのは手ではなかったが、腕だった。ぼくはつくづくと観察した。そこでぼくは思った、これがイェスパー・モルテンの指摘した現象であるかどうか決定するために、彼がいてくれさえしたらよいのに、と。こういう考えにふけってつっ立っているときに、一人のさすらい人に呼びかけられた。彼は雲の方を指しながら言った、「あの竜巻をごらんなさい。この地方ではかなりめずらしいものですがね。あいつはときによるとたくさんの家をそっくり吹き飛ばしてしまいますよ。」これはたいへんだ、竜巻なのか、とぼくは思って、できるだけはやく逃げだした。牧師イェスパー・モルテン氏がぼくの立場にいたとしたら、いったいどうしただろうか?

※イェスパー・モルテンは、パッゲセンの滑稽な物語『イェッペ』(1785)のなかの人物。

 

生存のみじめさを立証するために持ち出せる最上の証拠は、生存のすばらしさの考察から演繹されるものである。

 

ある劇場で側(わき)道具が燃え出したことがある。道化役が出てきて、観衆にそのことを知らせようとした。客は頓智だと思いこんで拍手喝采した。道化役がもう一度くり返して急を告げると、客はますます歓呼した。ぼくの思うに、世界は、ことを頓智(Witz)だと思いこむ、頓智ある頭脳の連中の大歓呼のうちに滅亡するであろう、と。

 

いったいこの人生の意義はなんであろう?人間たちを二つの大きな階級に分ければ、一方は生きるために働くもの、他方はその必要のない者、と言いうる。しかし生きるために働くということは決して人生の意義ではありえない。なぜなら、諸条件をたえず作り出すということが、この作り出すことによって条件づけられるものの意義への問いの答えであるというのは、なんとしても矛盾だからである。他方の人間の人生もやはり、諸条件を食いつぶすという以外には全くなんの意義も持たない。人生の意義は死ぬことだと言ったところで、これもやはり矛盾であるように見える。

 

哲学者たちが現実についていうことはしばしば、古道具屋で一つの看板に《洗濯ものしわのばし》と書いてあるのを見る場合と同じくらい人をだましやすい。しわのばしをさせようとして洗濯物を持ってきたら、だまされることになろう。あの看板はただ売るために店にあるのだから。

 

まるで自分の運命を変えうるかのように思って、世間で叫んだりわめいたりすることがいくらかでもやくに立つと信ずるには、たいへんな素朴さが必要である。ものごとを提供されるままに受取って、あらゆる苦情をやめるがよい。……

 

社会的な努力とそれにともなう美しい同情はますますひろまっていく。ライプツィヒには一つの委員会ができて、老馬の哀れな最後に対する同情から、それを食ってしまうことを決議した。

 

伝説によると、パルメニスコスはトロプォンの洞窟で笑う能力を失ったが、デロスで女神レトの像として立てられていたぶざまな丸太を見て、あの能力をふたたび得たといわれるが、このパルメニスコスと同じようなことがぼくの身にもおこった。まだずっと若かった頃、ぼくはトロプォンの洞窟で笑いを失った。年を取って、眼を開いて現実を観察するようになると、ぼくは笑わざるをえず、それ以来笑いをやめない。ぼくは見た、人生の意義がパンを得る道を見いだすことであり、人生の目的が法務顧問官になることであるのを。ぼくは見た、裕福な娘と結婚することが愛の豊かな楽しみであるのを、金銭上の困難の際に助けあうのが友情の至福であるのを、大多数の人々の考えることが知恵であるのを、演説をぶつことが感激であるのを、一〇ターラーの罰金の危険をおかすことが勇気であるのを、昼食のあとで「ご機嫌よく!」と言うことが至情であるのを、年に一度ミサにゆくのが敬虔であるのを。ぼくはこんなことを見て、笑った。

 

ぼくを束縛するのはなにか?フェンリス狼を縛った鎖はなんでできていたか?それは猫が地上を歩くときに前足で立てる音と、女のひげと、岩の根と、熊の草と、魚の息と、鳥の唾で作られていた。それと同じようにぼくも、暗い想像と、重苦しい夢と、落着きのない思想と、不安な予感と、わけのわからない心配でできた鎖によって束縛されている。この鎖は「たいへんしなやかで、絹のように柔かく、きわめて強い緊張にも耐え、断ち切ることができない。」

 

結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。結婚するか結婚しないか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は結婚するかそれとも結婚しないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するのだ。世間の愚行を見て笑うがいい、そうすれば君は後悔するだろう。世間の愚行を見て泣くがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。世間の愚行を見て笑うか泣くか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は世間の愚行を見て笑うかそれとも泣くかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するのだ。一人の娘を信頼するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。一人の娘を信頼しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。一人の娘を信頼するか信頼しないか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は一人の娘を信頼するか信頼しないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するだろう。首をくくるがいい、そうすれば君は後悔するだろう。首をくくらないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。首をくくるにしても首をくくらないにしても、いずれにしても君は後悔するだろう。君は首をくくるか首をくくらないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するだろう。諸君、これこそはあらゆる人生知の真髄である。ぼくはスピノザの言うように個々の瞬間にいっさいを永遠ノ形式(アエテルノ・モド)で考察するばかりではなく、ぼくはたえず永遠ノ形式であるのだ。多くの人々は、一方のことか他方のことかをしてしまってから対立を統一したり媒介したりするときに、自分たちもやはり永遠ノ形式であるのだと信じる。ところが、それは誤解だ。なぜなら、真の永遠はあれか=これかのあとにあるのではなく、そのまえにあるからである。したがってそういう人たちは二重の後悔をなめなければならないだろうから、彼らの永遠はやはり一種の苦しい時間的経過にすぎないであろう。だからぼくの知恵はたやすく理解される。なぜなら、ぼくは単に唯一の原則を――そこからぼくが出発すらしない原則を持つだけである。あれか=これかのあとからやってくる弁証法と、いまぼくの暗示した永遠の弁証法とを区別しなくてはならない。つまりぼくがここで、ぼくは自分の原則から出発しないと言えば、このことはその対立を一つの《そこから出発する》ということのなかに持つのではなく、ひたすらぼくの原則を言い表す消極的表現なのである。すなわち原則が、一つの《そこから出発する》かあるいは一つの《そこから出発しない》かということへの対立において、自己みずからを把握するためのものなのである。ぼくは自分の原則から出発しない。なぜなら、ぼくがそこから出発したとしたら僕は後悔するだろうからである。それゆえわが尊敬すべき聴衆諸君のなかのどなたかが、ぼくの言ったことになにか意味でもあるかのように思われたとしたら、その人はそう思うことによってただ、自分の頭が哲学に向かないということを立証するにすぎないのである。どなたかがぼくの言ったことに運動があると思われたとしたら、それも同じことを立証するのである。それに反して、ぼくがなんの運動もしないのにぼくについてくることのできる聴取諸君のために、いまぼくは永遠の真理を展開しよう。その真理によってこの哲学は自己みずからのうちにとどまり、より高い哲学を承認しないのである。すなわち、ぼくが自分の原則から出発するとすれば、ぼくはふたたびやめることができなくなるであろう。なぜなら、ぼくがやめないとすればぼくは後悔するだろうし、ぼくがやめるとすればぼくはやはり後悔するであろう、というようなことがつづく。ところが、ぼくは決して始めないから、ぼくはいつでもやめることができる。なぜなら、ぼくの永遠の出発はぼくの永遠の中止だからだ。経験の教えるところによれば、哲学にとって始めるということは決してたいしてむずかしいことではない。それどころか、哲学は実に無から始めるし、こうしていつでも始めることができる。これに反して、哲学と哲学者にとってむずかしいのはやめるということである。ぼくはこの困難からもまぬがれている。なぜなら、だれか、ぼくがいまやめることによって実際にやめるのだと信じるとすれば、その人は自分が思弁的な天賦を少しも持たないことを立証するわけである。だからぼくの哲学は、短かくて反駁しがたいという卓抜な特性を持っている。なぜなら、もしだれかがぼくを反駁したとすれば、ぼくはおそらくその人を気ちがいだと宣告する正当の理由を持つことになろう。つまり哲学者というのはつねに永遠ノ形式であるのであって、故ジンテニス氏のように単に永遠として生きられた数時間を持つのではないのである。

 

ある驚くべきことが僕の身におこった。ぼくは第七の天にまで引き上げられた。そこにはすべての神々が集っていた。特別な恩寵によってぼくは、一つの願いをする恵みが与えられた。メルクリウスが言った、『おまえが青春でも美でも権力でも長い生命でも最も美しい娘でも、そのほかわれわれの箱のなかにあるたくさんのすばらしいものの一つを望むなら、選ぶがいい。ただしたった一つだけだ。』一瞬間ぼくは迷っていたが、やがて次のような言葉を神々に向かって言った。高貴な同時代のみなさん、私はただ一つ、私がいつも笑う人々を私の側に持つことを願います。すると、それにひとりの神が言葉で答えたのではなくて、すべての神々が笑いはじめた。このことからぼくは、ぼくの願いが聞きとどけられたと推定し、神々がなかなか良い趣味をもって自分たちの意思を表明するすべを心得ていることを知った。なぜなら、大まじめで、お前の願いは聞きとどけられた、などと答えるのは、なんとしても不適当だったであろう。