断章

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われわれの教養施設の将来について

われわれの教養施設の将来について[1872、邦訳昭和26年] より一部抜粋
(一部を新字体に挿し変えている)

・第三の公演

・・・・・・こうしてギムナジウムは今でもまだ博識の栽培地かもしれないが、それはいわば最も高貴な目標を志す教養の自然でたくまぬ副作用にすぎぬあの博識ではなくて、むしろ不健康な身体の肥大症的な膨張にたとうべき類の博識なのだ。この博識な肥満症にギムナジウムはなつてゐるのだ、もしも今『現代ドイツ文化』として威張り返るならいであるあの洒落た野蛮の格闘練習場にまで堕落してはいないとすれば。

 

・・・・・・ここではギムナジウムは何よりも先ず名誉の或る段階と見なされる、そして凡そ統治の領域に進む衝動を感ずるすべてのものがギムナジウムの進路に踏み入ることだろう。これは一つの新しい、とにかく独自な現象だ、国家が文化の神秘教師として現れる、そして自分の目的をおし進めながら、国家はその従者の誰しもが一般的国家的教養の炬火だけを手にして彼の前に現れるように強制する、そのゆらめく光の中で彼等は国家自身を最高の目的として、一切の彼等の教養の努力の報酬として再び認むべきだとされるのだ。

 

・・・・・・考え深いギリシア人が国家に対して近代人には殆ど反感をそそるほど強い讃嘆と感謝の情を感じたのは、まさに、そのような危急と保護の施設がなくてはまた文化のただ一つの芽も発達できないこと、全く模倣できず万代唯一な彼の文化がまさに彼の危急と保護の施設の行きとどいた賢明な庇護のものでこそそれほど豊潤に成長したのだということをはつきり見きわめていたからだ。彼の文化にとつて国家は国境監視者や調整者や監督者ではなく、讃嘆された、もっと高貴な、いわばこの世のものならぬ友を荒荒しい現実の中を護衛して行つてその感謝を受けるところの強健で筋骨逞しい闘の身支度のできた盟友であり道連れなのだ。・・・・・・