断章

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あれかこれか 2

輪作

 

  さて、すべての人間は退屈である。この言葉自体が一つの分類の可能性を示唆する。退屈という言葉は他人を退屈させる人間をも、みずから退屈する人間をも言い現すことができる。他人を退屈させる人々は庶民、群衆であり、一般に無限の人間集団である。みずから退屈する人々は選ばれた者、貴族である。そして奇妙なことであるが、みずから退屈しない人々は通例他人を退屈させ、それに反して、みずから退屈する人々は他人を楽しませるのである。みずから退屈しない人々は一般に世の中でいかようにか多忙な人々であって、彼らはまさにそれゆえに最も退屈な、最もがまんのならない人々である。・・・・・・

 

・・・・・・閑居は決してあらゆる罪悪のはじめではなく、むしろ真の善である。しかし退屈はわざわいの根源であり、あらゆる罪悪のはじめであって、われわれが遠ざけておかなくてはならないものである。閑居は罪悪でもわざわいでもない。むしろわれわれは言うことができる、閑居を理解する心をもちあわせない人間は、そのことによって、彼がまだ人間的なものにまで高められていないことを示すのだ、と。・・・・・・

 

 決して職務に就いてはならない。そんなことをすれば、ひとは全く十把一からげの人間に、また国家組織という機械のちっぽけな鋲になってしまう。ひとは活動の主人であることをやめてしまうので、そうなればもろもろの理論もあまりやくに立たない。ひとはなにかの称号をもらうが、そのなかには罪と悪との全帰結が含まれている。奴隷労働をするための規則は、昇進が早かろうがおそかろうが、いずれにしても退屈である。称号というものは二度とぬぎ捨てることはできない。ただし犯罪によってならば別であるが、犯罪ならばひとをさらし者にするであろうし、そのときにすら、ひょっとして王室の決定によって特赦されて、ふたたび称号を与えられないともかぎらないのである。
 職務から遠ざかっているにしても、無為でいるべきではなく、閑暇と同一であるようなあらゆる仕事に価値を置くべきであって、パンに関係のないあらゆる種類の芸術をやるのがいい。けれどもこの点に関しても、あまり外延的ではなく、むしろ集約的に自己を発達させるべきで、たとえ年はとっても、子供は喜ぶためにわずかのものでたりるという古語の正しさを立証すべきである。

 

 恣意には秘密がこもっている。恣意的であることはなんら技術ではないと思われているが、自分自身が迷いこまず、自分で満足を感じるようなやり方で、恣意的であるためには、深い研究が必要である。そういうやり方ならば、われわれはあるものを直接的に享受するのではなく、全く別のものを、われわれ自身が恣意的にそこへ入れたものを享受する。われわれはある劇の途中を見物し、ある書物の第三部を読む。そうすればわれわれは、作者がご親切に読者に与えてくれようとしたものとは全く別の享楽を与えられる。われわれはぜんぜん偶然的なあるものを享受し、全存在をこの見地から考察し、この存在の実在性をそれによって挫折させる。私は一つの例をあげよう。私が、当時成立していたある生活関係のために、どうしてもおしゃべりを聞かされなくてはならない男があった。彼はあらゆる機会に小哲学講演を用意していたのだが、それがきわめて退屈なものだった。私は絶望にひんしていたのだが、突如として、彼が語るときに途方もなくひどく汗をかくことを発見した。いまこの汗が私の注意をひいた。私は汗つぶが彼の額の上に集まり、それから合して小さな流れになり、鼻を流れくだって、しまいにしずくの形になり、それが鼻の頭にぶらさがるのを眺めた。この瞬間からいっさいが変わってしまった。私は彼の額と鼻の汗を観察するだけのために、彼に哲学的な説教をはじめるようにけしかけることにさえ喜びを覚えた。バッゲセンはあるとき一人の男について、彼はたしかにたいへん礼儀正しい人間であるが、たった一つ文句があって、それは彼の名にはどんな言葉も韻が合わないことだ、と言った。このように、生の実在をこういう恣意的な関心によってどうでもいいものにしてしまうということは、極度に気持ちのいいことである。われわれは偶然的なあるものを絶対的なものにし、かかるものとして、絶対的な感嘆の対象にするのである。これは、心情が運動しているときには、特にすばらしい効果をあげる。多くの人々においてこの方法はすぐれた刺激法となる。生のなかのいっさいを一つの賭とみなす等々の方法である。ひとが自分の恣意を首尾一貫して保持することができればできるほど、結合はますますおもしろくなる。首尾一貫の程度はつねに、当人が芸術家であるか、それとももぐりであるかということを立証する。なぜなら、ある程度まではすべての人間が同じことをするからである。ひとが現実を見る目はたえず変わらなくてはならない。・・・・・・

 ひと自身のなかの恣意に外部の偶然が呼応する。だから、なにかが提供されるためには、ひとはつねに偶然的なものに対して眼を開いて心構エヲシテ(エクスペデイトウス)いなくてはならない。人々がすでに一週間ないし二週間もまえから心待ちにする、いわゆる社交的な喜びは、あまり意味はない。それに反して、きわめてささいな事柄さえ、偶然によって娯楽のために豊かな材料を提供することがある。この点に関して詳細にわたることは不可能であって、どんな理論もそこまでは及ばない。最も委曲をつくした理論といえども、天才がその遍在においてやすやすと発見するものにくらべれば、貧困にすぎないのである。

 

 

 

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