断章

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赦しの神

『イエスの父はいつ死んだか』佐藤研 p136-137

 

・・・・・・人間はどういうところで、そういう無条件の神のゆるしと出会うかというと、今挙げたイエスのたとえ物語の全部がそうですが、実存的な自立性が崩壊する、そこで出会っています。放蕩息子の下の弟にしろ、ぶどう園の最後の労働者にしろ、あるいは徴税人にしろ、ここで私は、「悔い改め」というつもりはありません。「悔い改め」というと、もう一つの立派な倫理的方向をとっているわけです。むしろ、自分が自分である、と自分を定立する意識が崩壊してしまう、ガタガタッっと解体してしまう、その地点が無条件にゆるす神との出会いの「場」なのです。逆にいうと、これがないと無条件のゆるしというのは分からない。その典型例が、もどってきた息子のたとえ物語の長男です。長男に対しても父親のゆるし、父親の愛というものは無条件に注がれているのですが、彼は分からない。だから文句をいうわけです。なぜ、分からないか。それは自分の立っている足もとが、自分が自分であるという意識が、くずれていないからです。くずれると分かる。しかし、そのゆるしはくずれないと与えられない、ということではないのです。ここが大事です。すでに与えられているのですが、気がつかないのです。もう一つ、付けくわえておきたいのは、そういう無条件のゆるしというものの体験、あるいはそれの理解、そこからイエスの倫理というのがきているということです。マタイによる福音書五章3節以下(並行ルカによる福音書六章20節以下)の、俗にいう山上の説教の基本的なポイントはどこにあるか、という問題といってもよいと思います。山上の説教というのは、大体、何々しなさいという調子が支配的ですが、そうすれば神の国に入れるという論法ではないということを言わなければならないのです。これは、無条件のゆるしに出会った者が、これからどう生きたらいいかというときの指針だと言いたいのです。無条件にゆるす神との出会い、そこからそれに何とかかなうように生きるにはどうするか、という問いが出てくる。倫理というものが流れでてくる。決してその逆ではない、ということです。