断章

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哲学における哲学者の問題

哲学においてある主張が誰のものであるかということは常に問題となる。例えば、次の文章を読んでみてほしい:

生成は、共にありえないものの共生の緊張を弛緩せしめることによって、ありえない共存を可能にする。生成は、したがって、悲劇的なものと共に生きる一つの生き方だ。・・・・・・

だれかが学説発表でこの文章を引用したとする。その末尾に「ヘーゲル精神現象学』」と書いてあれば、弁証法という彼の概念を思い起こして、そういうことも書いてあったかもしれない、いやヘーゲルにしては妙な文体だとあなたは思うだろう。あるいは、そこに「ニーチェ善悪の彼岸』」と書いてあれば、なるほど「生成」や「悲劇」は彼の好む言葉ではあるが、しかし「生成は悲劇的なものと共に生きる一つの生き方」などとニーチェが言うだろうか、とあなたは思うかもしれない。「ヴィトゲンシュタイン哲学探究』」などと書いてあれば、このような形而上学的物言いはヴィトゲンシュタインらしくない、と感じるだろう。そしてあなたはこの主張に現れている思想をその末尾に書かれた名前の人物のものとして受け取らざるを得ない。(実際にはこの文章はV.ジャンケレヴィッチ『死』1.1.3からの引用である。)

 ここで問題となるのは、それらの名前の権威がもたらす影響や、また匿名者の哲学的な著作やexpressionは扱われる価値があるのかということではなくて、もっと根本的に「(哲学における)発言・著作をexpressする個人(あるいは主体)を捨象してしまった上で、表現された発言・著作をなにか意味あるものとして扱うことができるのか」ということである。たとえば先の引用において、これが仮にニーチェのものだとすれば、彼の初期の思想に近い、くらいの評価を下せるかもしれないし、ヴィトゲンシュタインのものだとすれば、このような表現は彼の思想に著しく反するものだから、単に混乱をもたらすだけだろう。しかし、これを"Mr Nobody"による著作であるとしてしまえば一体この文章は何を意味することができるのだろうか。この文章が誰のものなのか、いつごろ書かれたものなのか、じかに日本語で書かれたのかあるいは翻訳なのか、ここで用いられている「生成」「ありえない共生」とは一体いかなるものを想定して書かれているのかということ、こういったもろもろの背景をすべて考えないあるいは全的に捨象してしまったとき、この文章は単に無意味なものか、あるいは「読者にとって」のみ意味をもつものとなる。この文章が書かれた意図をより正確に汲み取ろうとすれば、それはヘーゲルあるいはニーチェあるいはヴィトゲンシュタインあるいはジャンケレヴィッチといった「フィルター」を通さなければならない。

 

(続きはそのうち書く。結論としてはこれは匿名者の哲学の問題であると同時に政治におけることばの問題でもある。参考→言葉を奪い返そう――あなたの「言葉」と、私の「言葉」 - 華氏451度